その時、その場所でこそ成立する表現、効果を発揮する表現というものがあります。とりわけドキュメンタリー映画は、その時代、社会と切り離しては存在しないものです。
『立入禁止区域』はまさしくそんな映画です。
率直に言えば、粗い映像、仰々しい音楽、煩雑な編集など、映画の完成度としては荒削り感は否めません。佐藤監督自身、「作品を撮るつもりではなく、とにかく故郷・双葉町のありのままをカメラに収めたかった」と言っている通りです。
でも、その荒削り感、生々しい息遣いが胸に迫ります。
「震災後半年間の双葉町」という限定した舞台でしか撮りえない映像が、そこにはあるのです。それを鮮度が高い今のうちに、できるだけ多くの人に見てもらう価値がある。
先日、国会で上映されたそうですが、本作はそういった「社会的な眼差し」にさらされてこそ意義のある作品だと思います。各省庁で、各自治体で、各電力会社で、各電気メーカーで、メディア各社で、一人でも多くの人の目にふれてほしい作品です。
そしてもう一つ、本作の大きな意義は、双葉町のある一人の人物を発掘したところです。
双葉町自治会長の天野さん。
町長ではなく自治会長と聞くと、「単なる町の世話役」のイメージですが、その世話役がどれほど過酷で意義のあるものか、天野氏の姿からひしひしと伝わってきます。
言い方は悪いですが、天野氏は「震災に選ばれた」かのような人。震災後、原発に翻弄される町民たちを束ね、避難生活での精神的支柱であり続けます。
やがて、故郷を誰よりも想う天野氏が「双葉・大熊を放射性廃棄物の処分場に」という苦渋の決断を下すに至ります。
静謐な語りから垣間見える、私欲より公益を重んじる姿…監督は天野氏を「ラストサムライ」と評しましたが、なるほど、現代日本に天野氏のような方がいたというだけで、災厄の中に一筋の光明を見出した思いです。
時代を、社会を動かすのは、政治家でも、官僚でも、企業家でもなく、いち映画監督であり、いち自治会長なのかもしれない。そう思いたくなる映画でした。