2011-07-03

『ミラル』クロスレビュー:道端に咲く花のように。気づけるのなら、愛はいまそこにある このエントリーを含むはてなブックマーク 

 映画の前半では、パレスチナ問題に翻弄される女性たちが描かれている。少女ミラルは、そんな過酷な運命を生きた大人たちによって、生きる力を育まれた。この大人たちの人生の描写が、まず素晴らしい。特異な状況にあるとはいえ、今、このときを生きる全ての日本人にとっても、重なってくる問題を投げかけられている気がする。

 ユダヤ民兵組織によって、親を虐殺されたパレスチナ人の孤児たち。彼らをひきとり、子供の家=ダール・エティッフェルを設立した女性、ヒンドゥの生き方は、深く心に刻まれる。私財を注ぎ込まずにはいられなかった、彼女の想いが強く伝わってきて、平和への道を祈らずにはいられない。

 また、パレスチナ問題が根幹にあるであろう、ミラルの母・ナディアの人生も、死を選ばずにはいられなかったその心と反して、娘への想いの強さは涙をさそう。彼女自身が得られず、与えることができなかった親の愛というものを、人はみな気づかないまま、生きる基盤にしているものだから。彼女が、友人ファーティマから得た優しさや、夫ジャマールの献身的な愛からも救われることがなかったのは、あまりに悲しい。しかし、現実に絶望して命を断つ人を、当事者でない私たちが責めることはできないと思う。

 少女ミラルは、母の死後にダール・エティッフェルに預けられる。週末を父と過ごし、平日はヒンドゥのもとで教育を受けることになる。彼女の少女らしい正義感、感情に従って行動できる勇気には、清々しさを覚える。そのまっすぐな成長は、人の育成に関して、周囲の大人たちの力がいかに重要かを物語っている。それは必ずしも、血縁者でなくてもいい。大人の愛が、子どもの生をいきいきと蘇らせる、それが教育であって、平和への希望を生みだす原動力なのだと感じた。
 さらに言えば、このことこそが大人の役割であり、本当の大人の姿なのだろう。映画のなかで、ミラルは、イスラエル人の大人に言う。「ミラルは道端に咲く赤い花の名前。きっと誰もが目にしたことがあるはず」と。ミラルがそのとき用いた真意は、それほど平凡なものを踏みつけにした彼らへの怒りだ。だが、物語の最後で、彼女は気がつく。愛に基づいた英知がある、それに気づくことができれば、人生は真に自分のものになる、と。そのとき、赤い花もまた、新たな意味を持ったのだ。

 惜しいのは、ミラルが政治活動からジャーナリズムへ心を動かした理由が分かりにくかったこと。なぜ惹かれたのか、単なる流れか、意志によるものか。その心の変遷が描かれていれば、感動はもっと大きなものになったはず、とも感じた。
 だが、この映画が訴える実話の力は、パレスチナ人の生活風景も含めて、強く心に残る。

キーワード:


コメント(0)


藤田真弓

ゲストブロガー

藤田真弓


月別アーカイブ