2011-06-16

『BIUTIFUL ビューティフル』クロスレビュー:濁りながら、歪な光を放つ このエントリーを含むはてなブックマーク 

「ありふれた死」、とっさにそんな言葉が浮かぶ映画だった。
余命二か月と宣告された主人公ひとりにまとわりつく訳ではなく、この映画の中全体に死の影は漂い、突然その姿を顕わにする。
「世の不条理」では済まされない死も、そこにはあった。

一方で私は、作られた「甘美な死」とも「美しく散る最期」とも交わらない「生の在り方」を見たような気がした。
足掻きながら、嗚咽をあげながら、未練を残しながら、それでも死を見据える眼差しがそこにあった。
そして、その眼差しの源となっている「瞳」の奥に「澱」のように存在している、複雑な来歴と積み重ねた日々、様々な感情からもまた目を背けられない。
「エゴ」と「他者への、贖罪のような愛情」との間で揺れ動く主人公の「瞳」の奥で、その「澱」は歪な光を放っている。

程度の差こそあれど、すべての「瞳」は時に目を背けたくなるような光景を映し、罪や穢れを視ながら、同時に空の色や愛おしい存在を識っている。

「澱」の理由を「瞳」に映った世界に求めるなら、主人公を含め作中の人々の「瞳」は、これまで何を映してきたのだろう。

そして、その「澱」をどう受け止めるかで、この物語の見え方も変わってくるのだろう。

ほとんど余談になるが、「肉体と離れた、死後の魂」という存在を肯定する設定と演出、「遺体」という、おそらく最も直接的に「死」を表すものが時にモノのように扱われる様、など受け入れ難い人も多いであろう場面も、この作品には散りばめられている。
イニャリトゥ監督の前作『バベル』を彷彿とさせるような、やや激しい光の演出も、またそうだろう。

とはいえ、語れるほど監督の作品を知らない私にも、作り手の人生観や死生観が強烈に伝わってくるこの作品は「イニャリトゥ監督が最も描きたかった物語」と呼ぶには十分ふさわしく思えた。

キーワード:


コメント(0)


menthol_azure

ゲストブロガー

menthol_azure

“爆音系音楽と活字中毒です。 アマチュアの方の映像作品やイラストを観るのも好きです、というか空いた時間は大体いつもPCから観ています。 はじめたばかりですが、何卒よろしくお願いいたします。”


月別アーカイブ