2011-02-19

閉塞感の中で——映画『ペルシャ猫を誰も知らない』他—— このエントリーを含むはてなブックマーク 

 昨日(木曜日)は久しぶりに近所の下高井戸シネマに映画を観に行って来ました。

 予報では午後から雨とのことでしたが、半ば曇り空ながら日が差し、早いペースでウォーキングしていると汗ばむほどの春めいた陽気でした。

 観たのは『ペルシャ猫を誰も知らない』(原題“KASI AZ GORBEHAYEH IRANI KHABAR NADAREH”、監督・脚本:バフマン・ゴバディ、出演:ネガル・シャガギ、アシュカン・クーシャンネジャード、ハメッド・ベーダード他、イラン、2009年)。

 自由に音楽活動が出来ないイランからの出国を企てる若いミュージシャンのカップルと、彼女等/彼等の出国のための偽造パスポートとビザの手配する男を軸に、テヘランの若手ミュージシャン達の演奏風景を織り交ぜながら、イスラム共和制イランの「今」を多面的に映し出した半ドキュメンタリー作品。

 あらすじその他については、公式ホームページを参照。

 http://persian-neko.com/

 携帯電話などには多少のタイムラグは感じるものの、ミュージシャン達の服装や演奏風景からは、イランにも日本や西欧の所謂西側先進国と変わりない若者文化と風俗が存在していることが伺える。

 他方で、高速をドライヴ中に愛犬を同乗させているのを、革命防衛隊に咎められ、愛犬を没収させられそうになったり、大勢の若者が密かに酒と音楽を楽しんでいるビルに踏み込んできた革命防衛隊から逃れようとして、主人公の一人が誤って窓から落ちて瀕死の重傷を負ったりと、権力が市民生活にあからさまに介入してくる宗教国家の息苦しさも描かれている。

 現代イランのミュージックシーンは初見だったし、昨年観たアニメ映画『ペルセポリス』(※)等を通じて或る程度知ってはいたものの、イランの若者達の置かれている状況を実写で観られたのも収穫だった。

 ※1969年イラン生まれのフランス在住の女性作家・漫画家マルジャン・サトラピの自伝的漫画のアニメ化作品。原題“Persepolis”、 監督:サトラピ&ヴァンサン・パロノー、フランス、2007年。原作漫画も日本語で読むことが出来る(サトラピ、園田恵子訳『ペルセポリス1——イランの少女マルジ——』と『ペルセポリス2——マルジ、故郷に帰る——』、バジリコ、2005年)。

 しかし現体制を批判するこのような作品を制作するのは、非常にリスキーな行為とのことで、上記の公式ホームページによれば、実名で出演した若手ミュージシャンのカップルは、撮影終了直後に国外に逃れ、クルド系のゴバディ監督もこの作品を最後にイランから出国しているとのこと。

 女性の大学進学率が高く、中東ではトルコと並び、制限つきながらも民主主義が根付いていることなど、イランの現体制を擁護する議論もあることは勿論私も承知してはいます。しかしこの作品に関わった人達の、上記のような「その後」は、世界を二元論的に裁断し、市民生活の細部にまで権力が土足で踏み込んで来るような政治体制の難点を如実に表わすものだと言わざるを得ません。

 ここ何年か、年度末はいつもそうなのですが、このところ、短期的にさえ今後の見通しが立たず、先行きの見えない現状に、まんじりともしない日々を過ごしています。 派手なことや贅沢とは無縁とは言え、食事、飲酒、運動、睡眠、映画・音楽鑑賞、そして読書と思索などなど、生きる悦びを手放すつもりはないし、良くも悪くもこれまでいろいろあったお陰で、精神的には人一倍タフな方なので、自殺とかは全く考えませんが、まあ、本当に困ったものです。

 勿論いろいろと反省し軌道修正を計る必要はあるとは言え、根っこのところで自分自身を肯定し続けないとやっていけない訳ですが。

 さて、どうしたものか…。

 研究関係ではこのところ、「力」の再定義をテーマにした論文を書きながら、図書館から借りたフェミニスト思想や文学関連の本を読んだり、以前買ったまま「積読」状態だったスーザン・グリフィンの本に目を通して、自分の興味関心との接点を探ったりしています。

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知世(Chise)

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