2019-01-23

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およそ3年ぶりの個展「Super Processr」が香港のギャラリーAISHONANZUKAにて、今月12日から始まっています。会期は2月9日まで。
http://aishonanzuka.com/superprocessor.html

今回の展示は、主に、いままで発表してこなかった形式の作品で構成されています。一つ目は彫刻。二つ目はインスタレーション、三つ目は油絵です。

僕の制作活動はひとつの作風の反復ではなく、活動初期から、もっといえば、学生時代から不変の興味や関心(とはいえ、出身の美術大学ではデザイン科に通っていたので、現在の制作活動との連続性はまったくありません。美大やその延長にあるあらゆるものに幻滅した結果、卒業後は美術方面に関わるのを断ち、学習塾向け教材の問題作成や校正・編集をフリーターとしてやってましたから)を核に、そこから論理的に派生した、メディアや技法を問わない複数のシリーズの複合体です。(それがゆえに作品の外見に幅がありすぎて、その多面性ゆえに理解するのが難しく扱うのが難しいんでしょうね。活動歴は数年前に10年を超えたけれど、国内ではどこからも、一切声がかからないかもんなあ)

しかしそれにもかかわらず、今まで製作していた作品はほぼ平面(ドローイングやコラージュ、印刷など)に偏っており、上記どちらの形式もアーティストとして活動を継続していこうとする中で、いつかは、というよりも可能な限り早い段階で実現させなければいけないと思っていたものなので、今回かたちにできたことに、ささやかな満足を感じています。

彫刻とインスタレーションについては説明は省きます。

油絵について:
一見下品でバカバカしいモチーフには、政治的・文化的(美術史も含む)にラディカルな要素が挿入されています。24点あるそれぞれのペインティングに込められたある種の記号としてのモチーフやテキストが何に言及しているか、全て答えられたら見事です。美術のプロフェッショナルを自認している方でしたら、ほとんどの言及先がお解りになるはずです。またそれらには、サブカルチャーとアート・ヒストリーの接点を発見できる工夫もしてあります。その動機には僕が常々感じている、美術側からの、音楽をはじめとしたアンダーグラウンド/インディペンデント・カルチャーやサブカルチャー(オタク文化は含まない)への無理解や興味のなさへの不満です。今回のペインティングはそういったことに対する異議申し立ても含んでいます。音楽側から美術への関心という逆の現象はよくあるのに、不思議すぎる。なんなのだろう。
ちなみに、絵筆を持ったのは美術予備校へ通学していた時以来17年ぶりでした。油絵の具を使うのは初めてでした。意外と描けるもんですね。

今回は香港でライブの機会をつくっていただきました。それはわずかながら上記の不満を解消する場としても貴重な体験でした。
そのイベントでは僕をメイン・アクトとして扱っていただき、1時間以上も演奏(コンピューターのソロ2曲+ドラムで共演者とセッション)させていただきました。
ギャラリーと、僕とギャラリー共々仲良くしている友人、そしておそらく香港で一番アクティブに活動されているノイズ・ミュージシャンのSin:Nedさんが自身のレーベルRe-Recordsとして、三者が共同で企画してくれました。とても面白かった。もっと美術関係の方が来てくれれば良かったのに。

ともあれ、4日間のみの滞在で大忙しでしたがとても楽しかった。現地でお会いした方、またお会いできずとも作品に興味を持っていただいてる方々、ありがとうございます。

以下、今回の展覧会に向けて僕が書いた文章を載せます。上記と重複する部分もありますが是非お読みください。

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菊地はこれまで、人間のみが持つもっとも高度かつ抽象的な能力である「言語」についての関心を軸にしながら、そこにもうひとつの人間固有の概念「社会的に管理される性や死(言語が形成する社会システムによって抑圧される対象)」を交え、自身の審美的判断にさえ懐疑的に、制作行為に身体的な制約を設けるなどして偶然性を呼び込みつつ制作を行ってきました。それは個人の合理性を前提とした近代の精神を超え出た現象を理性を通して召還する試みであり、同時にいまだ集団主義的な日本社会への、またそこで生活する自身への痛烈な皮肉でもあります。

本展覧会では、上述の禁欲的な方法により抽象度を高められた作品群に加え、新しい試みとして、それらの対極に位置する要素や方法を前景化させ制作されたペインティングシリーズ“BLACK CORRECTION”が対置されます。それらには政治的・文化的な歴史が挿入され、低俗さと高尚さが奇妙に同居する仕掛けが施されています。その低俗さとは、菊地自身がアーティストとして、これまでの理性主義的な制作において自己を抑圧していたもので、冒頭に述べた「言語」と「社会的に管理される性や死」の関係とのアナロジーで言えば後者にあたります。したがって、本展覧会では、社会の中の個人としての菊地と、かれ個人の理性と反理性の二重性を見て取ることができるでしょう。

“BLACK CORRECTION”においては、言語への関心は記号論的な問題へと拡張され、性の問題は、その他のモチーフに埋没するかたちで低俗さの象徴としてのみ扱われます。それらの低俗さと高度な社会システムとの接点を象徴するのが“Super Processor”です。日本ではポルノを販売・鑑賞するにあたり、局部の修正処理が法的に義務づけられています。Super Processorは、ポルノビデオの修正箇所を復元することができるというふれこみで地下流通していた詐欺まがいの機器の名称です。

本展覧会では、機器Super Processorから着想を得た菊地初のインスタレーション“Room Aroused”が、禁欲的に抽象度を高められた作品群の代表として発表されます。また機器SuperProcessorの錬金術的な経済活動のメタファーとして菊地初の彫刻作品が機器の完全な模刻として発表されます。
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菊地良博

ゲストブロガー

菊地良博

“宮城県在住 美術家/実験音楽家 ”


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